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五日目の記事
2007 / 03 / 01 ( Thu )
ぎりぎりの裸でゐる時も貴族 (櫂 未知子)

 自ずと眼に飛び込んでくる勢いのある表現だ。「裸でゐる時も」と詠んでいるので、平素より貴族だと言いたいのだろう。自己を貴族と見立てているのか、それとも他者を貴族と例えているのかは景がぶれる(視点が定まらない)ところであるが、貴族はぎりぎりの裸でいる時も気品を失わないという事なのだろう。つまり、「貴族は何をしても貴族、平民は何をしても平民」という事だ。勿論、他にも多種多様な読み方が出来るのだろうが、僕にはこの解釈がしっくりきた。また、「裸」という下等なイメージの単語を、「貴族」という上質な単語にコネクト(繋げた)事も、「ギャップの妙」があって面白い。
 ちなみにこの句は17文字で納まっているものの、「五・七・五」の定型のリズムには、はまっていない。昨日と一昨日の句も、そうであった。これを俗に「破調」(句またがり)と呼ぶのだが、「破調」の句は、もはや珍しくは無い。勿論、「五・七・五」のリズムがベストであるという大衆の理念は変わっていないだろうが、とりたててリズムが悪くない限り「破調」(句またがり)が、非難されなくなっているのが現状である。この現状には、賛否両論あるが、僕は俳句がより「ポップ」に近づいた証だと評したい。ポップになり、より大衆化したからこそ、新しい表現が認められたのだと考える。
 作者は、『現代俳句一〇〇人二〇句』(邑書林)に於いて「詩型に甘えぬこと。定型を愛しつつ、定型に挑むこと。」と記している。
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テーマ:俳句 - ジャンル:小説・文学

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